寝言は寝てから

荒川弘ファンのてきとうなおしゃべり。

DN

ダリューンナルサスの魅力の扉を開いてくださった、ところてん大西様に感謝をこめて。

信頼と友情がちょっと度を超えてるけど本人たちはただの親友と思ってる、そういう二人。

現パロです。

ナルサス→成瀬、ダリューン→黒騎、キシュワード→岸和田、となっていますので、最初は読みにくいと思います。ごめんなさい。でもよろしければ、ぜひ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『俺たちにその挨拶はいらない』

登場人物紹介

成瀬司(なるせ つかさ) 本編主人公。天才と名高い。議員秘書等を経て今は自由業。

黒騎士郎(くろき しろう) 成瀬の親友。警察庁警備局所属。今は海外研修中。

岸和田剣二(きしわだ けんじ) 警備局外事情報部所属。鷹匠でもある。

不破蘭(ふわ らん) 美澄羅女子医大院生。精神鑑定医。

比留間駿(ひるま すすむ) 政治経済誌『正統』編集長。

斬出剛(ざんで つよし) 法政大学学生。『正統』スタッフ。

井須半次狼(いす はんじろう) 警視庁巡査。

iPhoneの通知がしつこく光る。成瀬は仕方なくそれを手に取り一方的に告げた。

「こっちは締め切り前だ。用件は手短にしてくれ」

電話の向こうで、短いため息が聞こえ、続いて低い声が響いた。

「よかった、いたか。すまんが急ぎ立川署まで来てくれ」

成瀬は右手のペンをギリッと握る。

「締め切り前と言ったろう」

「すまん。頼む」

成瀬は眉間に皺をよせた。電話の相手は警察庁の岸和田だ。有能かつ謹厳実直な男。理由なく成瀬を呼びつけるようなことはしないし、そもそも大抵のことは当人か組織が解決できる。成瀬さえ一目置く男が、何があったというのか。

電話の向こうの声に緊張は無く、ただ困惑を帯びている。

成瀬は立ち上がり、ブルーのブルゾンをつかむと、ハイカットシューズを履いて外に出た。案の定、古びたアパートの鉄階段から見下ろせる路地にトヨタのアクアが停まっている。岸和田の配下の覆面パトカーだ。

iPhoneから声が響く。

「人に会ってもらいたい」

いつもながら無駄にいい声だな、と見当違いのことを思う。

「暴力事件で拘束しているが、話す内容がおかしい」

「ヤク?」

「違う」

成瀬はアクアに乗り込む。運転席の私服警官は軽く会釈をすると、車をなめらかに発進させた。

精神疾患?」

「おそらく」

「何で俺だ。専門外だぞ」

「知っている」

京大1回生で司法試験に合格した天才を呼び付けるとは、いったい何があったのか。

岸和田が告げる。

「その男は、黒騎に似ている」

「ほう?」

成瀬は後部座席で長い足を組んだ。

「長官に内々で接見してもらった。確かに似ていると。今DNA鑑定に回している」

刃振頭どのが自ら接見を?驚きつつも、成瀬は思わず笑みを浮かべた。

「そうか、黒騎にはどこぞの落し種の兄弟がいたか」

それは喜ばしいことのように思えた。

しかし、そいつの頭がおかしいとなると。

「頭は別にいい。長官の身内から犯罪者が出るよりは」

「暴力事件と言ったな」

山口組系6人を素手で伸した。全員骨折、うち一人は意識不明」

「それはまずいな」

成瀬は自分が呼ばれた意味が分かった。黒騎は警察庁長官の甥で若きエリートだ。将来を嘱望され今はロンドンへ半年間の研修に行っている。

成瀬はiphoneをしまうとリアウィンドウを透かして街の上を走るモノレール線を見上げた。11月の晴天が広がっている。

立川署に着くと岸和田が出迎えた。立派な頬髯を生やし、とても警察官には見えない。所属は外事課で今はインド大使館との折衝に当たっているが、今回の案件は組織犯罪対策部の九鳥から引き継いだという。

成瀬は岸和田と並び廊下を歩く。

「そいつの名は」

ダリューンと名乗っている」

ダリューン?どこの国の人間だ?」

「パルス、だそうだ。奴はその国の騎士で、王太子とともに旅をしていたが、魔道の術によってここに飛ばされた、と」

「は!」

どんな設定だ。確かに頭がおかしい。

二人は留置場の前で止まった。警備の警官がぴっと敬礼し、中へ促す。

「自称が騎士なだけあって、興奮状態が収まった後は実に礼儀正しいし、話も通じる。あとは成瀬どのの判断に任せる」

話が通じる誇大妄想癖か。面白そうだ、もう少し精神医学を修めておくんだったな。

ガチャリと錠が鳴り、扉が開く。透明な強化アクリル板の向こうには、立派な体躯の男が背筋を伸ばして座っている。ぴっちりと撫で付けられた長髪は後ろにひとくくりにされ、一筋のこぼれた毛が顔の前に垂れていた。

確かに、似ている。事前に聞いていなければ声をあげてしまうところだった。

逆に、声をあげたのは相手だった。

ナルサス!」

戸惑いの視線が交差する。

ナルサス…では、ないのか?」

「俺の名は成瀬、なるせだ。人違いでは?」

成瀬はこちら側のパイプ椅子を引き、優雅に腰を下ろした。

ダリューンと名乗った男はしばしアクリル越しの成瀬を見下ろしていたが、ひとつ首を振り、自分の椅子に腰かけた。

黒騎に似た男は背が高く、190センチはあるだろう。動作に一分の隙も無く、鍛え上げられた筋肉が作務衣に似た黒い衣服越しにもよくわかる。なるほど素手で6人か。

ダリューンさん、だったか?」

「ただのダリューンでいい」

「では、ダリューン。私に見覚えが?」

男は顎をひく。

「いや。よく見ると違う。だがおぬしは俺の親友にとても良く似ている」

「ほう?」

「俺の友、ナルサスはパルスきっての、いや大陸一の知恵者だ。魔道の術にも詳しいゆえ、きっと俺を探しているはずなのだが……」

成瀬は複雑な気持ちだったが、それを顔に出しはしなかった。自分の幼馴染とそっくりの男が、自分そっくりな友人がいるといい、そして小学生の空想のような頭のおかしな話をしている。

だが、まずは話を聞くことだ。誇大妄想癖なら論点の穴を突き、世界を崩していけばいい。

「そんなに似ているのか?」

「ああ。驚いたものだ」

「では、初めましての挨拶は要らないな。早速だがあなたの親友によく似た私に、あなたの国のことを聞かせてもらえるだろうか」

ダリューンはふっと表情を和らげた。その顔こそ黒騎にそっくりで、成瀬はどうにも居心地の悪さを感じる。

「何か?」

「いや、ようやく俺の話を聞いてくれる人間が表れたと思ってな。どうも俺は頭がおかしいと思われているようだ。まあこれほど文明の違う国に飛ばされては無理もないとは思う。だが、友人そっくりなおぬしが目の前にいると、やはり少し安心するな」

成瀬は感心した。この男は賢い。自分の置かれた状況をわきまえている上、俺を心理的な味方にしようとしている。

ふむ。おもしろい。

この男が住むパルスとやらの世界は、どれほどの物か、とくと聞いてやろうではないか。

面接を終え、成瀬は岸和田と会議室に入った。先に待っていた精神鑑定医の不破が、窓際の席に優美に腰掛けている。

「どうじゃった?」

成瀬は肩をすくめると、手近な椅子に無造作に座った。

「非常に良くできた世界観だ。魔道うんぬんはともかく、文化、社会、人物、歴史、ほぼ整合性が取れている」

岸和田が頷く。

「蘭先生も同意見だ」

不破は白い繊手を朝露にぬれた薔薇のような唇に添え、考え深げに言う。

「うむ。かの男はパルス国の万騎長とかいう存在になり切っておる。転生や憑依を語る事例と似ているが、客観性の高さが珍しい事例じゃな」

「それで」

岸和田が声をひそめて聞く。

「どうだ。成瀬から見て、あのダリューンという男は黒騎と何か関係がありそうか」

成瀬は腕を組み、注意深く言葉を探した。

「……よく似ている。物事のとらえかたは真っ直ぐで、真面目だがユーモアもある。身体の使いかた、視線の動きや聴覚の鋭さは相当な武術の使い手だ。自信があり、慢心はない。当然にリーダーシップもあるだろう」

成瀬は一旦言葉を切り、警官と医師…いや、信頼の置ける友人らを見回した。

「そして、とてつもない闘争本能を、完全に理性で制御できている。やつが黒騎と無関係だとしたら、俺は明日から太陽が四角いと言い出すぞ」

岸和田と不破蘭が頷いた。二人もまた、ダリューンは黒騎の関係者と見ていたのだ。しかし一番古い付き合いで自他ともに認める親友の成瀬の言葉は重みが違う。

だが、と岸和田は眉を寄せた。

「しかしあの男の国…いや、あの男の脳内の国では、武力でもって自分に向かってくる敵は、殺しても罪ではない。そこが、日本の警察官たる黒騎とは、決定的に違う」

「ふむ」

「ついさっき、九鳥から連絡があってな」

堂々と外線から掛かってきた電話の向こうからは豪快な声が響いた。

「おう、ノびてた奴が目を覚ましたぞ。肋骨がイカれてるほかは異常なしだとさ」

これでこないだの抗争の情報を絞り取れる。騎士様にも礼を言っといてくれ。そう言って一方的に電話は切れた。九鳥は昔、片目に傷を負いながらも三頭竜組を壊滅させた男だ。山口組も近々同じ憂き目にあうに違いない。

「だからダリューン氏の暴力による被害は単純骨折までで、相手が組モンだから正当防衛と主張できるだろう。だが、殺人の意志があったとなると話は別だ」

黒騎は明後日のロンドン外相会談で、日英合同警備部隊を率いる。ダリューン氏を立件するなら検察への引渡しは今夜。しばらくは伏せておけるだろうがその先をどうするか。

だが成瀬は口元に笑みをひらめかせた。

「いや。ダリューンは外国人なんだ。どんな治安や文化の国から来たのだろうと、この平和で安全な日本で、誰も好き好んで殺しはせんさ。まして奴は一万の部下を持つ高級士官だ」

「得物を持った組員を、まとめて倒す男だぞ」

「奴の力には理性の手綱がついている」

「本当に?」

「すくなくとも、黒騎に連なる者ならな」

不破蘭は静かに微笑んだ。このひと癖もふた癖もある成瀬という男が、黒騎士郎に関してだけは、何の打算もなく絶対の信頼を寄せている。それを彼自身も不思議にも思っていないところが、どことなくほほえましい。

「不起訴の方向で行けるか」

岸和田が成瀬に確認する。弁護士資格も持つ成瀬は自信を持って頷いた。

「行ける」

「ふむ。では、あとは身元確認をどうするかだな…」

岸和田はデスクの隅の電話をつかみ、内線をプッシュすると部下に調査の指示を出す。

それを聞きつつ成瀬も何気なくポケットからiPhoneを取り出した。

そして「げ」とうめき声を上げて固まった。

iPhoneには、「成瀬先生!今どこですか!」「原稿!」「締め切り!」「原稿!」と怒涛のメッセージが連なっていたのだ。

この3時間、斬出はメッセとTELを連続で入れ続けている。うるさいのでいつも通知を切っているが、これはさすがにまずい。通話をタップしたとたん大声が響いた。

「先生!原稿!!」

成瀬は眉間のしわを親指で押さえながら苦々しげに答える。

「わかっている。下書きは済んでいるからアシスタントに先に」

「それが!」

成瀬の言葉を斬出の声がさえぎった。

「奴もついに音を上げまして!あの絵を見るくらいなら夢をあきらめ田舎に帰ると」

「なっ…!」

二の句を告げず青くなる成瀬をみやり、岸和田は同情を禁じ得ない。もちろん、その逃げ出したアシスタントのほうにだ。これでもう7人め。そろそろ諦めてやれないものか、この両極端な天才は。

「わ、わかった。こちらで何とかする。だから編集長には明日まで待つよう」

「無理です!」

成瀬は口をつぐむ。

成瀬が連載を持つのは政治経済誌『正統』。やや右寄りの非常に硬派な雑誌である。そこに、国際関係解説記事と、漫画とを、連載しているのだ。

初めて成瀬の原稿が載ったとき、世間は阿鼻叫喚に包まれた。バリバリにお堅い雑誌に、小林ユウと田辺セイイチと楳図カズオを大鍋で煮込んでキュビズムとシュルレアリズムを壷ごとぶち込んだような、とてつもない絵が、なぜかコマ割りフキダシ付きの漫画の体裁で掲載されているのだから。

高齢の社長会長政治家読者がショックで次々と吐き気頭痛高血圧を起こし病院に運ばれ、ニュースサイトの「要注意画像」の但し書きは赤文字点滅、テレビではモザイクがかかりベテランアナウンサーが1分の原稿に6回も噛みカメラが倒れ急遽CM、けれど朝の情報番組おはスタの花江氏だけはなぜか平気で「なぜなんでしょうね」と眼鏡のふちごしににっこり笑うもんだからその人気はさらに急上昇したが、同じく人気声優浪川氏が自らの番組で「すばらしい芸術だ!」と絶賛しても「浪川は漢字だけでなく絵もわからんのかw」と周囲にいじられるだけで終わった。

大変な騒ぎの中で怖いもの見たさの読者とネタ大好きネット民により雑誌は瞬く間に完売、嵐のような増刷要請とあんな害悪をさらに刷るのかと非難の豪雨が出版社に怒涛のごとくよせられ、翌月よりその漫画ページは昔懐かしいエロ本のごとく袋とじとなった。

続く半年のうちに「戦後政治の歴史」とか「マクロ経済と金融政策」とかが目次に並ぶクソ真面目な雑誌の発行部数は驚異的に伸び、『正統』はまさしく政経雑誌の王者となる。

そしてこの雑誌を総轄する比留間編集長の斬新な手法と英断に、出版界経済界は惜しみない讃辞を送った。素晴らしい、彼こそはこれからの日本を率いる若き英雄だ!

成瀬に原稿を依頼したのは比留間である。

比留間の叔父は大物政治家の安藤で、成瀬は3年前までその秘書だった。当時比留間はハーバードに留学中で成瀬との面識は無かったが、強面で好戦的な安藤豪羅士を相手に若手秘書が啖呵を切って辞めたと聞き、興味を持ったのだ。成瀬がネット論壇で敵を次々と論破していく様も見て、いずれ己が政権を握るための手駒に使えるとも考えた。

成瀬に、自分の雑誌に主張を載せないか打診すると、芸術に割くページがあるなら考えてもいい、という返答だった。比留間は酔狂者め、と一笑に付し、その条件を承諾した。幸いにも、いや、不幸にもと言うべきか、比留間は成瀬の絵を見たことがなかったのだ。

初めて上がってきた当の「芸術」を見、比留間は衝動的にそれを引き裂いた。しかし、これまた幸か不幸かそれはコピーだったので原稿は無事だった。その頃には比留間も、成瀬は決して相容れない思想の持主だと理解していたが、一度了承したものをくつがえすのは比留間の矜持が許さなかった。

そうして原稿は載り、前述の地獄絵図が繰り広げられたのである。

幸いにして芸術ではないほうの原稿は期待どおりのものだった。比留間は自身も「銀仮面」のペンネームで執筆しているが、互いの主張はまったく異なる。しかし異なる主張を載せることで雑誌の客観性、信頼性は向上した。

発行元のルシタニア出版は、社長が新興宗教に走り焚書まがいの事件を起こしたことがあったので、外部から招聘した編集長が率いる雑誌といえども、それまでは不審を抱く読者も少なからずいた。

だが成瀬と銀仮面が誌上で繰り広げる論戦はその疑念を吹き飛ばした。その激しさ鋭さはまるで剣戟のようだと絶賛され、雑誌の部数だけでなくその権威をも高める結果となったのだった。

比留間は成瀬の採用により自身が想定もしなかった躍進を果たしたが、その想定外が癇に障る。

成瀬も、偉大なる芸術のためとはいえ比留間の雑誌に載せてもらう、という関係が癪に障る。

よって二人はそれぞれが、決して相手に弱みを見せてやるものか、と己に誓っているのであった。

そのような訳だから、どうしたって締め切りに遅れるわけにはいかない。

成瀬は電話の向こうでわめきたてる斬出へ、低い声で「何とかする」とだけ告げて通話を切った。

しかしアシスタント無しでは絶対に原稿は間に合わない。

どうすればいい、成瀬。

成瀬は己に問いかけ、即座に返答を得た。原稿を手伝える男。そいつは今ここに居る!

「岸和田どの、俺がダリューンの身元引受人になる」

「何?」

成瀬はカタリと立ち上がり、空中を見据え高らかに宣言した。

「黒騎とほとんど同じ男だ!俺は奴を使う権利がある!」

岸和田はあっけに取られた。こうなった成瀬は止められない。

不破蘭が愉快そうに微笑む。

「監察医の診断書が必要なら私が書いてしんぜよう」

ああ、絶世の美女が味方についた。これはもう成瀬に任せるしかないな。岸和田はため息をつき、苦笑しつつ了承した。

来たときと同じアクアで成瀬の自宅へ向かう。後部座席には成瀬とダリューン

黒騎によく似た男は目元を緩め成瀬にいう。

「あの檻の待遇は良かったが、やはり虜囚の身は窮屈だ。出してくれて感謝する」

成瀬は正面を向いたままむすりと告げる。

「おれの仕事を手伝うという条件付きだ」

ダリューンは口元を引き締め、真面目に頷いた。

「わかっている」

運転席の警官は心の中で天を仰いだ。彼はクリスチャンではなかったが、ハンドルを握っていなければ胸の前で十字を切っていたことだろう。

住宅街を抜け、平凡な2階建てアパートの前で車は止まる。

成瀬の生家は琵琶湖に面する広大な土地を持つ大地主である。本来はこんな粗末な家に住む者ではないのだが、家業は人にゆだね、今はモラトリアムというかバカンスというかでこの立川に居を移し、執筆および創作活動に打ち込んでいる。

古びた鉄階段を上り安普請のドアを開ける。と、なんとそこには斬出がいた。

「成瀬先生!お待ちしておりました。早く原稿を!」

「待て、お前どうやって入った」

「大屋さんに鍵を開けてもらいました。うさぎやのどら焼きで」

「あンの…!」

斬出は比留間編集長の信奉者だ。法政大学ラグビー部で練習に明け暮れているが、有り余る体力と熱意で『正統』編集部のアルバイトもやっている。性格は良くも悪くも真っ直ぐで暑苦しいことこの上ない。そして意外に情報通でもある。うさぎやのどら焼きは岡埜栄泉の豆大福と並ぶ、ご年配口説き最終兵器和菓子だ。

成瀬は乱雑に靴をぬぐと、縦も横も大柄な斬出を押しのけ、自室に入った。

押入の上段からノートPCを取り出しながら言う。

「先に国際政治の論評を渡す。それ持っていったん帰れ。明朝8時までに原稿は仕上げる」

PCを畳に置いて電源を入れ、USBメモリに暗号化した記事をコピーする。今月のテーマは移民と労働問題だ。もちろん成瀬と比留間の意見は真っ向から対立している。

USBメモリが可愛らしい絵の具チューブの形なのは、成瀬の「未来の妻」と自称する迷惑な女子高生からのプレゼントであるからだ。わざわざこのメモリにしたのは成瀬からの嫌がらせだと、比留間は正しく判断するだろう。

これを見るたび昔からの教え子が眉をひそめるので、しばらく比留間に預けておくか、と成瀬は思う。そして女子高生は、成瀬の仕事の役に立ったと知れば素直に喜ぶに違いない。そんな娘であるから成瀬も本気では嫌えない。

USBメモリを斬出は大きな両手で受け取り、「必ず8時ですよ」といらぬ念を入れ、どすどすと鉄階段を降りて行った。

言われるまでもない。あのいけ好かない油断ならない強敵の比留間に隙などみせてなどやるものか。必ず朝までに原稿を仕上げてやる。

成瀬は外で待っていたダリューンを部屋に招き入れた。

「靴は脱げよ」

パルスとかいう国ではどうだか知らないが。

物珍しそうに狭い部屋を見回すダリューンを置いて押入れの前へ戻る。そしてPCを閉じようとして、アラームに気付いた。

ハッと息を呑む。これは、黒騎からのスカイプ

思わずダリューンを見る。黒騎そっくりの男。

用も無いのにメールするほど黒騎はマメではないし、成瀬もまた黒騎への信頼ゆえに用もないのに連絡することはない。

それが、いきなりスカイプだと?iPhoneを見るとそちらにも斬出の通知に埋もれて黒騎からのコールがあった。くそ、何があった?

成瀬はマイクをONにして黒騎をコールする。

すぐに応答があった。

「成瀬」

黒騎の声は明朗だった。「まったく、何度かけたら出るんだ。寝ていたのか?」

成瀬は近くに来たダリューンを見た。不思議そうに黒く薄い板が発光するのを見ている。中から聞こえる声は自分とそっくりだと、この男は気付いているだろうか。

だがしかし、PCの向こうの声こそ、本物の黒騎だ。おれの、20年来の親友の……。

知らず肩から力が抜ける。気持ちに余裕ができると妙な喜びがわきあがってきた。

「寝る間なんかあるか。明日までに原稿を仕上げねばならんのだぞ」

ククッと笑い声が聞こえ、男らしく朗らかな声が返ってくる。

「まったく、まだあの奇怪でおどろおどろしい絵を描いているのか。あれを載せるというその一点だけで、おれは比留間どのを尊敬せねばならぬと思うぞ」

「やかましい」

心地よい、いつもの軽口。

「それで?」

「ああ、成瀬のまわりでは、最近なにか変わったことはないか?」

「変わったことも何も!」

成瀬は声を張り上げた。

「お前に会わせたいものだ。お前の双子の兄弟が、今ここに居るんだぞ」

「そうか!」

打てば響く返答。黒騎の返答があまりに明るくて、てっきり「何を馬鹿な」と笑われると思っていた成瀬はぽかんと口を開けてしまった。

「は?」

「了解した。こちらはもう出ねばならん。またすぐ連絡するから携帯は鳴るようにしておけよ」

プツリ。会話は唐突に終了した。

「おい?」

何だあの勝手な男は。

成瀬が呆然と切れたスカイプの画面を見ていると、横から黒くて図体のでかい男が同じ画面を覗き込む。

「すごいものだな、魔道の世界の道具とは」

ダリューンは感心しきりと深く頷いている。

「おれの友人もきっと面白がるだろう。見せてやれないのが残念だ」

成瀬は急に強い苛立ちを感じた。この男、まだパルスの騎士ごっこを続けるつもりか。

乱雑にノートPCを閉め、押入の上に放り込む。段のふちをぐっと握り、ゆっくりと息を吐く。

どんなに頭がおかしかろうと、この男にとってはそれが事実なのだ。黒騎の親戚かもしれない男。無駄な刺激は逆効果だ。いずれ時間をかければこいつの妄想を解くこともできるだろう。

それに、今はとにかく原稿だ。

そのためには気合を入れなければ!

ナルサスは押入れ下段の、プラスチックの衣装ケースを引き出した。LLサイズのTシャツを取り出し、次いで油性マジックを手に取る。

ダリューンを振り返って聞く。

「おいダリューン、お前あだ名は何かあるか」

「あだ名?」

「パルス国とかいう所では、名前以外では何と呼ばれている」

「そうだな、地位は万騎長だったが今は違う。戦士の中の戦士、と呼ばれることはあるな。自分で言うのは面映ゆいが」

「ふん、いいだろう」

成瀬はきゅぽんとマジックペンのキャップを取ると、まっ白いシャツの中央に大きく「戦士の中の戦士」と書き、それをダリューンに放った。

「仕事だ。着換えろ」

ナルサスもブルゾンのファスナーを下げ、それを脱ぐとTシャツになった。胸には堂々と「宮廷画家」と書いてある。

ダリューンは珍しげにTシャツの手触りをたしかめると、上着を脱いで部屋の隅に置き、Tシャツを頭からかぶって両手を通した。成瀬は思わずダリューンの肉体に視線を走らせる。鍛え上げられた筋肉には細かい傷跡が走り、まるで本物の歴戦の騎士のようだ。

本当に、この男は何者なのか。

……いや。それを調べるのは警察の仕事だ。

「よし、じゃあここに座れ」

成瀬が座卓を示す。

その上にあるモノを見て、ダリューンは初めて「ウッ」と呻いた。警察署でもここに来るまでも落ち着いた態度を崩さなかった男が、明らかにうろたえている。だが成瀬はかまわない。あらゆる人間が自分の絵を見ると同じかそれ以上の反応を示すので、成瀬にとってそれはカラスがカアと鳴くくらい当然で平凡で当たり前の日常だからだ。

ダリューンが慄き気味に「まさかこういうところまで似ているとは」とつぶやいたが完全無視する。

「まずは枠線引きだ。これをこう使う。迷わず力まず、すっと引くのが肝心だ」

ダリューンは生唾を飲み込むと覚悟をきめて座卓に向かった。一本目はペン先を割る気かと呆れるほど太い線だったが、何本か線を引くうちすぐにコツをつかむ。

成瀬は文字も図も、他のあらゆる能力と同じく人並み以上に巧みである。初めて仕事場に引きずり込まれた学生時代の黒騎が「線は引けるのだな」と言って成瀬を怒らせたのはそう昔の話でもない。しかしそれが、こと「絵」となると、どうしてこうもとてつもない代物になるのか。それこそ世界の七不思議とも言えよう。

なお、成瀬は昔ながらのアナログ原稿にこだわりデジタル作画は行わない。尊敬する十勝地方出身の漫画家がアナログ作画だからだそうで、お陰でネット上のイラストサイトは激烈な汚染を浴びずに済んでいる。

成瀬も座卓につき、畳に正座すると、製図用インクを開け原稿のペン入れを始めた。

夜を徹して作画に励み、ツバを飛ばしてダリューンの下手糞なベタをしかりつけ、紙どころか机まで切り裂くトーン貼りに悲鳴を上げ、表はホワイトで裏はセロハンテープでガチガチに補強された原稿がすべて仕上がった時には、夜が明けていた。

ひどい絵を見続けたダリューンは顔面を畳に突っ込みぶっ倒れたままぴくぴくと痙攣している。

ど素人のアシスタントを怒鳴り続けた成瀬もまた今までになく疲労困憊していた。1枚1枚がやたら分厚い原稿をまとめて封筒に入れ、よろよろと立ち上がる。そこにドンドン、と乱暴なノックが鳴った。

「斬出です。原稿どうですか!」

ナルサスはドアを開け、黙ってギロリと無粋な大男を睨む。

「いえ、その。まだ7時ですが、できれば早く編集長に原稿を」

成瀬は手にしていた封筒を斬出の無駄に分厚い胸板に押し付ける。斬出は慌ててそれを受け取り、極力中身を見ないように枚数を確認し、満足そうに頷いた。

「あざっす!」

体育会系の大声は徹夜明けの耳に痛い。

成瀬はさっさとドアを閉めた。ブオオオン!と斬出のバイクの音が遠ざかってゆく。

ふらふらと部屋へ戻り、そのまま畳に転がる。大の字になって息を吐く。力無くiPhoneを引き寄せ通知を見るが、黒騎からのものは無い。あいつめ、すぐに連絡すると言っていたのに。

成瀬はそのままぼんやりと意識を手放した。

ディーディレッデッデデ。

UVERの着信音に成瀬は飛び起きた。黒騎からだ。窓からは明るい朝の日差しがさんさんと降り注いでいる。ダリューンは部屋の隅で腕立て伏せの体勢だ。くそ、筋肉バカな所まで黒騎と同じだ。

成瀬はiPhoneを耳に当てる。

「何だ」

「原稿は終わったか?」

黒騎のはっきりした声。

「当たり前だ」

「それなら今すぐ羽田に来てくれ」

「羽田?」

「今着いたところだ」

「何?!」

待て。前回の通話から…デスク脇のアナログ時計を見る。8時。あの直後に出れば日本に着くか?しかし。

高速で回転する成瀬の頭脳に、黒騎の低音が響く。

「そっちの俺も一緒にな」

黒騎の声は笑みを含んでいた。

通話が切れたiPhoneを眺めること1秒。成瀬は素早く立川署をタップした。

「岸和田どのをたのむ」

「今日は本庁に出勤している。成瀬どのか?何があった」

「三編どのか。黒騎が今羽田だ。知っているか?」

「いや、聞いていない」

生真面目な三編の驚きの声に、成瀬はかぶせるように言う。

「黒騎はダリューンを知っていた。羽田に一緒に来いと」

「わかった。弟がさっき出たところだ。出勤ついでに送らせる」

「感謝する」

成瀬はダリューンに「出かけるぞ」と短く告げ、洗面台で顔を洗い、くしゃくしゃの髪を手早く結うとハンガーからブルゾンを引っこ抜く。ダリューンもTシャツの上から黒の作務衣をはおり帯を締めた。

ドアを開けると下の道路へスバルWRXが滑り込んでくるところだった。さすが狼、動きが早い。

二人が乗り込むと車は俊敏に走り出した。

三編の異母弟の井須半次狼は、高卒で警察官になった。兄と異なるノンキャリの道を選んだ弟に、妙な遠慮なぞしなくても、と嘆息した三編は、俺の送迎を頼む代わりだなどと下手な名目をつけて就職祝いにWRXを買ってやった。以来、井須は喜んで兄のために車を走らせている。優秀な働きが評価され東京国際空港テロ対処部隊に抜擢されたため、ちょうど羽田が勤務地だ。

信号で車が停止すると、井須が運転席からコンビニの袋を差し出した。

「良かったらどうぞ」

井須の朝食なのだろう。そういえば成瀬もダリューンも昨晩宅配ピザを齧ったきりだ。戸棚のカップ麺でないのは一応は成瀬が気を遣ったからだが、悲鳴と怒号の徹夜作業であのカロリーはすっかり蒸発してしまった。

これから何が起きるかわからないのに腹ペコでは戦もできない。ありがたく頂くことにする。

成瀬はカロリーメイトを取り出しダリューンに渡した。ダリューンは黙って箱を持っている。気付いた成瀬は箱を取り上げ、金色の袋を取り出す。これもまた全く食い物には見えないな、と少し袋をやぶいてやってから、再度ダリューンに渡す。

ダリューンはくんっと匂いを嗅いだ。即座にそれが食べ物と判断できたのだろう。ぱくりと齧る。

「うまいな」

パルスの菓子と似ている、と嬉しそうなダリューンは放っておき、成瀬は鮭マヨのおにぎりを剥く。焼き鮭のほうが好みだが文句を言うところではない。お茶が2本入っていたのも感謝して、ダリューンにどちらを飲むか聞くとジャスミン茶を選んだ。成瀬は緑茶を手に取る。

ダリューンはそういうのが好きか」

小花のパッケージが男の大きな手に似合わず、ついからかいたくなる。

「いや、これは殿下が好む茶だ。だがナルサ…成瀬はどちらかというと、普通の緑茶が好きだと思ったのだが、違うか?」

成瀬はペットボトルに口をつけたまま、しばし考えた。そういえば先週、江良無がアップルティーとダージリンとで聞いてきた時は、ダージリンを選んでいた。

「普通のお茶のほうが丁寧に煎れてくれたのがわかるからな。江良無が煎れるならダージリンがいい」

と言ったら何だか耳を赤くしてキッチンに行ってしまい、それから格別に上手い紅茶を出してくれた。聡い子だから、黒騎の不在で俺がなんとなく物足りない気分だったのを察してくれていたのだろう。

自分では気付いていなかったが、確かにコーヒーでも紅茶でも、シンプルなほうが好きだ。それをダリューンに言い当てられたのが、悔しいような、温かいような。自分でもつかみきれない気分を、おーいお茶で流し込む。

そして返答を待っている様子の隣の男に、軽く肩をすくめて返した。

「いや。違わない」

羽田空港国際ターミナル。

ゴー!と音を立てて巨大な飛行機がゆっくりと降りてくる。

「井須どの、忙しいところすまなかった」

「いいえ。黒騎警視正によろしくお伝えください」

口を開けたまま周囲を見回すダリューンの袖をひっぱり、成瀬はエスカレーターへ急いだ。黒騎は展望台にいるという。

5階のガラス張りホールを出ると冷たい風が吹きつけた。滑走路の上には広々とした青空。遠くでゆっくりと飛行機が上昇してゆく。平日の午前、人もまばらな屋上に、その人影はくっきりと立っていた。

「黒騎!」

自然、早足になる。長真の人影は二人。黒騎の隣には同じく長身の、淡い色の髪を緩やかに肩のあたりで結んだ外国人が立っていた。外国人……いや、まさか。

その時、後ろから大きな声が響いた。

ナルサス!」

ダリューンが大股で成瀬を抜き去り、その外国人の元へ駆け寄る。

「来てくれたのか」

「当然だろう?」

喜色あらわに相手の肩を叩く、黒騎そっくりなダリューン。そして余裕綽々の笑顔の内に、喜びと安堵を秘めた……自分そっくりな、男。

成瀬は三人の元に歩み寄る。

「黒騎、これは」

黒騎は笑顔で頷いた。

「俺もまだ信じられん」

成瀬は、なぜ電話で言ってくれなかったんだ、と黒騎に詰め寄ろうとして、その直前に理解した。黒騎に口止めしたのは、このナルサスという男だ。俺そっくりに、いけすかない思考の持ち主であるに違いない。

「誤解してもらっては困るが」

ナルサスは先手を打って口を開く。

「別に、おぬしの驚いた顔を見たくて黒騎どのに口止めしたのではないぞ?」

当然だ。自分を驚かせて喜ぶような趣味は俺には無い。つまりこいつにも。

そして、おのずから分かってしまう。つまりはもう一人の、ダリューンの驚いた顔が見たかったということだ。

この馬鹿、もう少し考えて発言しろ。成瀬はがっくりと肩を落とした。俺は人から見てこんなにも分かりやすい人間だろうか。

ナルサスも成瀬の表情の変化から己の言が意味したところを理解し、気まずそうに視線を逸らす。

しかし互いの相棒は、そんな親友の面倒な心理戦など少しも気付かないのだった。

「おぬしが黒騎どのか。確かに間違われるのも無理は無い」

「本当に。俺を外から見るとこの様に見えるのか、面白いものだな」

二人は互いに手を差し出した。しかし、握手の寸前でナルサスに止められる。

ダリューン、思うに、ここは俺たちの国と平行にあるまったく別の世界なのだ。同じ存在であるお前と黒騎どのとが触れると、おそらくお前はここから弾き出され、もとの世界に帰れる」

「そうか」

ダリューンは頷き、上げていた手をおろす。

そして体ごと成瀬へ向き直った。深々と頭を下げる。

「成瀬どの。大変に世話になった。心から礼を言う」

そしてゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに成瀬を見た。

ああ、このまっすぐな視線。黒騎と同じ目だ。同じ顔である以上に、同じ精神を持つ者。

成瀬は柔らかく微笑んだ。

「俺の方こそ礼を言う。お陰で締め切りに間に合った」

ダリューンはウッと声を詰まらせ黒騎を見た。

「黒騎どの。おれはナルサスの絵など、どんなに頼まれても手伝わん。友情は立派だが、ほどほどにしておくがいいと思うぞ」

黒騎は成瀬に食ってかかる。

「お前、あの精神破壊原稿をこいつに手伝わせたのか?!」

「当然だ。俺がこいつを助けてやったのだからな」

岸和田や不破の助力もあったが、それは今は棚に上げる。

黒騎は額に手を当て、はあーっとため息を吐く。

ダリューンどの。すまなかった。こいつには俺からとくと言って聞かせるから、成瀬の絵は忘れてくれ」

「言われなくとも」

親友同士の意見が一致し、成瀬とナルサスは憮然とした表情だ。

「では、兄弟よ。名残惜しいが俺にはやらねばならぬことがある。ここで会えたことに感謝する」

「俺もだ、ダリューンどの。会えてよかった。あなたとナルサスどのとの大願が果たされることを祈っている」

黒髪の長身の男ふたりは一歩ずつ歩み寄り、互いの力強い手を差し出し、がっしりと握手した。

とたん、ダリューンの姿がすうっと薄くなり、光る粉のようになって消える。

黒騎はしばらく相手の消えた右手を眺めていた。そしてその手のひらを握る。

顔を上げ、ナルサスを見る。

ナルサスどの。あなたに会えたことにも」

差し出された右手をナルサスも握る。

「こちらこそ感謝する」

それから、ぱさりと髪をゆらし頭を傾けて笑う。

「ただなあ、もう俺をシェイクスピアとかの劇団員と間違うのは、勘弁願いたいものだ」

黒騎も破顔する。

「仕方無かろう。俳優か奇術師でなければ、あの振る舞いは何だというのだ」

黒騎と笑いあいながらナルサスはちらりと成瀬を見た。はっと成瀬が顔をとりつくろう間もなく、ナルサスはにやりと口の端を上げ、黒騎の肩を引き寄せる。

「せっかく友となれたのに、もう別れねばならぬとは」

と、その頬に軽く口づけた。

思わず息を止める成瀬に、ナルサスはとてもいい笑顔を向ける。

「おや、成瀬どの。ただの別れの挨拶だよ」

違う。ぜったいに違う!黒騎はちっとも疑っていないが俺には分かる。何て嫌な奴なんだナルサスという男は!

成瀬はぐい、と黒騎の腕を引き、自分の隣に並ばせる。そして一歩前に出て、ナルサスに右手を差し出す。

「こちらこそ、名残惜しいが」

さっさと帰れ、この変態。

「いや、本当に黒騎どのと出会えて幸いだった。色々と興味深い体験ができたものだ」

何だ、やきもちか?

「ああ、俺もダリューンどのとの夜を徹しての共同作業は、一生の思い出になるだろう」

挑発するなら相手になるぞ。

「それを言うなら」

ゴゴーーーー!

轟音が不毛な会話を断ち切る。次の飛行機がゆっくりと滑走路へ出てゆくところだった。

成瀬とナルサスは二人して飛行機を見送り、そして黙って顔を見合わせる。

「だがまあ」

ナルサスがこほん、と咳払いする。

「俺の大切な友人を、守ってくれて、その」

言いづらそうに視線を斜め下に下げたまま。

「ありがとう」

成瀬は目を見開いた。そうだ、この男はダリューンを取り戻すためにここへ来たのだ。他の誰でもない、唯一の友を。

もしこれが俺ならば。ああ、俺だって間違いなくそうする。もしも黒騎が窮地に陥ったなら、そしてそれを救うすべを俺が知るなら。

俺だって、異世界にだって飛んでいくだろう。

成瀬はゆるく首を振った。

「いや。当然のことをしたまでだ」

もし、逆の立場だったとしても。きっとこのナルサスは、俺と同じに、黒騎を守ってくれるだろう。

成瀬とナルサスは頷きあい、互いの手を差し出した。しっかりと握る。とたん、それは手の中で溶けるように消え、ナルサスもまた光の粒となって消えた。

フウ、とため息が、すぐ右隣で聞こえる。目線を上げると黒騎が複雑そうな顔をしていた。

「成瀬がここにいるというのに」黒騎は眉を下げ、わずかに下にある親友の顔を見て言う。

「お前とそっくりな男が消えてしまうというのは、どうも、さみしいものだな」

ああ。俺もダリューンが「帰って」しまったときに同じことを感じた。それをてらいもなく口に出せるお前の心根が、俺はうらやましく思う。

成瀬はこぶしでトン、と黒騎の胸をたたく。

「まあ、これですべては事も無し、というやつだ」

黒騎も穏やかに頷いた。

「そうだな」

ゴー!と音を立て、また1台、飛行機が大空へ飛び立ってゆく。今日は晴天だ。いいフライトとなるだろう。

展望デッキの向こうに井須の姿が見えた。警察官の制服に着替えている。軽く手を振ると俊敏に駆けより、黒騎をみとめてぴっと敬礼をした。

成瀬を見て尋ねる。

ダリューン氏はどちらへ?」

「国へ帰った。ちょうどここに迎えが来ていたんだ」

「そうですか」

素直に頷き、報告します、と断って携帯をかけた。

通話の途中で幾度か頷き、了解しました、と携帯を閉じる。

「岸和田警視長より連絡です。外務大臣はあと15分ほどで羽田に到着予定です」

「了解した」

黒騎も敬礼を返し、大股で歩き出した。

一拍遅れて成瀬が追う。

「大臣?」

「明日の会談だ。知っているだろう?ナルサスはさすがお前とそっくりなだけある。見事な手回しだったぞ」

黒騎はロンドン外相会談の警備主任だ。だったらトーキョーまで迎えに行ってしまえばいいではないか。そうすれば俺のダリューンと直に会える。ナルサスはそう言って、数時間後には共に機上の人となっていた。

成瀬は呆れて両手を広げた。自然と声が大きくなる。

「それで、着いて2時間でとんぼ返りか!?だいたい、俺が来れなかったらどうする気だったんだ」

「その時は、職場の車を借りるなり、何とでもしたさ」

立川のアパートへ、パトカーで乗り込むつもりだったということだ。止めてくれ!と成瀬は本気で叫んだ。

黒騎はおかしそうに笑い、それからさも当然という風に続けた。

「だがまあ、俺とお前だ。会えないはずが無いだろう?」

そうだ。

会えないはずがない。あの不思議な二人が、この異世界でも会えたように。

ターミナルビルに入り、通路を横切り、関係者入口の鉄扉へ向かう。この先は、黒騎は成瀬の幼馴染ではなく、日本警察の若きエリート黒騎士郎となる。

そこで黒騎が立ち止まる。井須に先に行くように告げ、成瀬に壁際を示す。

「何だ?」

成瀬が壁に寄ると、黒騎は周囲に視線を走らせてから、まるで学生時代のようにいたずらな瞳で彼を見下ろした。

そして親指をくい、と上げ、自分の頬を指す。

「成瀬、別れの挨拶」

成瀬は息を呑んだ。それは、ナルサスと同じことを、俺にしろと。

この朴念仁からまさかそんな台詞が。ロンドン住まい、恐るべし。

しかし黒騎と再び会えるのはおそらく来年の春だ。まだ数ヶ月も先。ネットで声は聞ける。姿を見ることもできる。

けれど実物の黒騎は、今、ここでしか。

成瀬は詰めていた息をそっと吐いた。顔を上げた目の前には、堀の深い、精悍な男の顔。幼馴染で親友で、他の誰とも違う、大切な……。

成瀬の手が上がる。

長い指を、黒騎の顎から頬へ滑らせる。そして。

「いっでっででででで!!!」

おもいっきりつねってやった。

爪を立てて存分に引っ張ってから、弾くように離す。そこに微塵の容赦も無い。

黒騎は長身を折り曲げ、頬を押さえて痛みに耐える。

そんな友人に成瀬は冷たく言い放った。

「フン、それもあのナルサスの入れ知恵か」

「そ、そうだ…」

当然だろう。この男がそんな気障なまねをできるはずが無い。

「すまん成瀬。ナルサスに約束させられて」

まだ頬を押さえながら黒騎が詫びる。ま、そんなことだろう。あの男、本当に嫌な野郎だ。絶対に俺より性格悪いぞ!

「黒騎。俺たちは違うだろう?」

黒騎が顔を上げ、瞬きする。

俺は拳を作って、黒騎の前に出す。

「別れの挨拶なんか、いらない」

そうだ。俺は黒騎と会える。いつでも。なんなら今から一緒にロンドンへ飛んだっていいんだ。

黒騎はもう一度瞬きし、それから笑った。成瀬の好きな、男らしい笑顔だ。

「そうだな。その通りだ」

黒騎も拳を上げる。ごん、拳と拳を、少し痛いくらいに突き合わせる。

「またな」

「ああ、また」

黒騎は姿勢を正し、端整な敬礼をすると、鉄扉を開けて行ってしまった。

ナルサスは背を向け歩き出す。

とりあえず帰って一眠りだ。それから事の次第を岸和田どのと不破先生に話さねばな。九鳥どのにも。彼に会うには酒が要る、勤務明けは何時だろうか。こっそり岐阜にも連絡してやろう。きっとどこからでも蘭どの~!とやって来るに違いない。

エスカレーターを下る間にiPhoneで手早くワインの旨い店をリストアップし、ついでに井須の愛犬が好むドッグフードを注文する。あの兄弟は義理堅いから、こちらも相応に礼をせねば。

多くの人が行き交うロビーを横切る。

「そういえば、ダリューンはTシャツを着たままだったな」

戦士の中の戦士。彼もまた今ごろは、彼の国で彼の仲間に囲まれていることだろう。

ターミナルビルから出て、成瀬は大きく伸びをした。

爽やかな風と眩しい青がどこまでも広がっていた。

おわり。

大西様へ感謝をこめて。子豚寝

・成瀬のアシスタントはアルザングとか魔道士たち。ついに全員が撃破されてしまい、尊師ガクブル。

・弟が愛犬家なのでお兄ちゃんは自分が猫派なのをひた隠しにしている、という設定をつくったのに入れられなかった。

広告を非表示にする