寝言は寝てから

荒川弘ファンのてきとうなおしゃべり。

八軒母のこと

良い人だけど、無神経。

母親とは、そういうもの。

特に10代から見た母親というものは。

この、ごくごく平凡な50前後の「お母さん」を荒川弘が描けたことが、私はすごく嬉しかった。

少年漫画に出てくる女性って、ほとんどが「プロ」か「聖母」なんですよ。

プロは、主人公より優れた何かを持っている女。男と共に前線に立つ人。

ファンタジーの女剣士、学園モノの学級委員、スポーツもののマネージャー。

鋼なら、リザ、オリヴィエ、メイ、ランファン。

聖母は、主人公や彼ら男性の、すべてを許してくれる人。男の帰りを待つ女。

ファンタジーのお姫様、学園モノやスポーツものの幼馴染。

鋼なら、トリシャ、グレイシア、大総統婦人、ウィンリィ

荒川先生は男、特におっさんはレパートリーが広く、さらに「男の駄目なところ」を実に愛情深く描ける、すばらしい書き手さんです。

でも、女のレパートリーは、少年漫画の枠内に限られた。

モブでも、男には紳士もおっちゃんもいるのに、女は奥さんはいてもおばちゃんがいない。馬鹿だけど気のいい憲兵や炭鉱夫はいるのに、女はみな「賢い」のだ。

御影アキのキャラクター造形はがんばっている。

「平凡な女の子のヒロイン」というのは、恋愛が描けない作家さんにとってかなりの難易度だと思う。

最初のうちは、いい子かもだけどヒロインとしての魅力は物足りない女の子だった。

でも後半になり、勉強が苦手という要素を足し、恋愛音痴を前面に出すことでヒロイン性が増した。

今のアキはとても素敵だ。頭が悪い設定になったぶん、そこから登ろうと努力する様子がいっそう彼女を応援したくなる。

そして八軒の母、八軒美沙子は、私が待ち望んだ「平凡で賢さの足りないモブ女」でした!

多くの読者さんは、いいお母さんじゃないか、と言うけども、私から見たら彼女は「聖母」じゃないところが最大の魅力なんですよ!

「お父さんも心配してましたよ」メールの無神経さ。

息子が兄弟してドロップアウトしたってのに責任感じてない暢気さ。

久々に会う長男への第一声が「だらしない」「ご近所さんに恥ずかしい」という近視眼的なところ。

この、自分の頭であんま考えてない感じ!

これ、すっごい「主婦」っぽいですよ~!

連絡もなしに突然息子が帰ってきても、何かあったの?と相手の心配するより、何で連絡くれないの、と自分の都合を言うところ。

夫と息子が気まずい距離を置くリビングを臨むキッチンで、鼻歌を歌いながら昆布で出汁を取る鈍さ。

息子が当然に自分を受け入れていると考えて疑わない、典型的な母親。

彼女はきっと、ご近所さんともうまくやってて、手芸とか役に立たない趣味のお友達がいて、毎日の家事を何の疑問も不満も持たずにやり続けることができて、料理も基本に忠実で美味しくて、家事の手抜きとか思いつきもしなくて、そんな工夫で家事をやりくりする必要も無くて、物事を深く考えることなく穏やかに暮らしている中年女性。

善良で、温厚で、無神経な。

だから八軒は母親にイラつくし、だから八軒は母親に反抗しきれない。

八軒は父から逃げたけど、母からも逃げたのです。彼女の鈍さに傷つけられることから、そして温厚な母を傷つけたくなくて。

彼女が息子を自分の付属物…とまではいかなくても、精神的にまだへその緒がつながっていると思い込んでいたのを改めるきっかけが、高校での息子の様子を見て、というところも、とてもリアリティがあります。

ひな鳥は親離れした後、若鳥で群れを作って暮らす。次の春に伴侶を見つけ新しい巣をかけるまで。

高校はちょうど若鳥の群れ。

そこには親がいなくても暮らしていけるだけの成長を遂げた個体がいる。まだ群れが必要な頼りなさはあれども。

頼れる夫としっかり者のお兄ちゃんと優しい末っ子。

八軒美沙子の視界に写る家族は、そのような形だったのだろう。

でも、その末っ子ももう、一人の若者なのだ。

別れ際、八軒が母の「お父さんも美味しかったと」の嘘メールを許すシーンが、しみじみと味わいがある。

「自分がそうして欲しいから、その気持ちがあのメールになっちゃったんだろ」

こんなね。

こんなこと、分かる人は、分かった感情を言語に翻訳して発信できる人間は、そうはいませんよ。

この時、八軒は確実に母親より大人だ。

タクシーに乗る母親と、見送る八軒の、目線の位置の上下が、とても象徴的なシーン。

聖母ではない、ごく普通の母親。

イラつくしうっとおしいし、できれば顔を合わせたくない。けれど感謝はしてる。

母親に対する八軒の感情は、八軒美沙子が凡庸な人物として描かれているからこそ、読者の共感を得る。八軒は面倒くさい奴だな、まあ分かるけどさ、と。

彼女のような女を、荒川弘が描けた。それは私にとって銀の匙という作品における大きな価値のひとつになっています!

超エラそうな物言いだけど!

(だって次のアル戦は全くもって戦う女と待つ女の2種類しかない田中さん原作なんだもの~)

銀の匙という作品には、「悪」がない。悪い人もいなければ怨みや憎しみといった悪感情もない。

だからどんなにテーマがリアルでも、この作品はファンタジーだ。

けれどファンタジーではないから、聖母はいない。

この絶妙なバランス。

こんな素晴らしい作品を読めるって、私は本当に幸せ者だと思います。

あと、美沙子さんも幸せ者だよなあ~。厳格で口下手だけど愛情深い夫と、ちょっとヒネてるけどすっげえ良い息子を二人も持っててさ!

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