荒川弘版アルスラーン戦記が描くもの
私はこれを読んで、荒川弘は小説をただ漫画化するんじゃないんだ。コミカライズという舞台を選んだだけで、今回もまた、自分のテーマを描くために漫画を描くんだ!と、目が覚めました。
「仮に奴隷を解放したら、奴隷は自分一人の力で生きないといけない。これはアルスラーンにも通じることです。王太子という立場に守られていた彼も、自分の力で立ち上がって進む道を見つけないといけない。自分自身の解放を、彼も求められていると思うんです」
解放。
あっ。これだ!
今まで、荒川弘のテーマとは「人間とは何か」だと思っていました。
人間とは何か、人間らしさとは何か。
でも、もっとぴったりくるキーワードがあった。「開放」
わー!そうだよそうだよ!開放こそが荒川作品のキーワードだよ!
デビュー作、STRAY DOG は正にくびきから開放される様を描いていた。
蒼天の蝙蝠も抜け忍の開放を。
上海は切り裂きジャックの過去から開放された後の、面白可笑しい気楽な日々を。
RAIDEN-18は常識からの開放?(笑)
鋼の錬金術師も、あの結末は、錬金術からの開放だったのではないか。
銀の匙もまた、「家」からの開放を、八軒、アキ、駒場の三者三様で描いている。
そうして、ヤマカム氏がレビュー(リンク)で見事に喝破していたアルスラーン戦記のテーマ、「奴隷制度」と「王の資質」は、「開放」というキーワードで一つになる。
アルスラーンは「開放する者」となり、それによって自身も解放される。
1話で奴隷制度の矛盾を突きつけたルシタニアの少年兵エトワールは、「開放される者」となるのだろう。宗教から、既存の価値観から。
エラムが歳の割に大人っぽいのは、解放奴隷の子なので、開放というステップにおいてはアルスラーンたちより先にいるキャラだからかな?それとも、もう一度、自身のこととして奴隷制を捉えなおす描写があるのかしら。
そうして開放された者、鎖と庇護を捨てた者=大人になった者は。
その先を、自分自身の力で生きなければいけない。
立って歩け。前へ進め。アンタには立派な足がついているじゃないか。
一つのテーマにぐるりと円環は巡り、アルスラーン戦記の最後は鋼の錬金術師の1話につながっていくんだ。
ああ!ワクワクする!
開放、を、どのように描いていくのか。これからもずっと、楽しみにしています!!!
さて、以降は原作ネタバレを織り交ぜながら、上の結論に至った過程をつらつら語っております。
せっかく書いたのでもったいないから載せとくw
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雑誌連載開始時からアル戦感想を拝見させていただいておりました、こちらのブログ。
~ Literacy Bar ~ 荒川弘版『アルスラーン戦記』第11章『カーラーンの出陣』感想(ネタバレ有)
上記ブログのコメント欄に、以下書き込みがありました。
「エラムとエトワールの実際の性別と逆の姿での装いでのやり取りも然ることながら、『解放奴隷の子』であるエラムが逃げ出す際、「速く俺達を自由民にしてくれ」という奴隷たちの期待に慄く、エトワールの姿を横目に、『本当に酷い状況にいる者に下手な希望を持たせることは、絶望の中にとどめておくより、遥かにたちが悪い』という内心が聞こえてくるかのような描写でした。 (tacさん)」
そう!そうなのです!
エラムはすぐに逃げず、エトワールと奴隷たちとのやり取りを見ているのです。
絵では、いつものエラムの表情。
丸い目と小さな口。内心をうかがわせる顔はしていません。
もうひとコマ、やり取りを見ながら台に足をかけるコマがあり、それから屋根に飛び移って逃げていきます。
すぐさまエラムが逃げない、ことに、私は少しひっかかりを感じていましたが、上の指摘で気づきました。
ここは、荒川弘のオリジナルシーン。
そして、荒川弘が無駄コマを描くはずが無いのです。
無駄ゴマを描くはずが無い。まして、原作付きにおいては。
ご自分の作品が数々の素晴らしいメディア化作品に再生されてきた荒川先生が、今度は自分が「二次」を描く側に立っている。絵の力の入りようからも、非常に背筋が伸びた仕事をしてらっしゃるのが分かる。
エラムが奴隷を見ているコマが、2つある。
これは間違いなく、エラムは奴隷達を見、そして何かを感じていることを、描いている。
荒川弘の静的演出。ずっと後に、このページを読み返したときに、気付く人だけ気付く。そういう演出です。
1話で登場したルシタニアの少年は、エステル(エトワール)だということはすぐ気づきました。
オリジナル話にオリジナルキャラを出す必要が無いからです。
同い年なのでエステルしかいません。
仕込んでる仕込んでるw
しっかりした男の子。荒川先生の子。
ギリシャ彫刻のような鼻筋の美しいナルサスや、美形にチャレンジ!なギーヴ、容れ物をなぞっているタハミーネ(彼女の内面を描くのは後日の楽しみにしてるのだと思う)と違い、荒川先生の持ちキャラのデザインです。
アルスラーンが原作よりずっと、生きている少年であるように、少年漫画としてエラムにもきっとスポットが当たるな。
これはペシャワール要塞への道中、仲良くなっていく描写が楽しみだ、と思いました。
そして、先月号です。
エステルとエラムの邂逅。
そこに、奴隷を登場させるオリジナルシーン。
今、荒川版アルスラーン戦記に、主人公(=読者)と同年代は3人しか居ません。
開放奴隷の子エラム。
そして荒川弘オリジナル、奴隷制の矛盾を最初にアルスラーンに突きつけたエステルです。
そうか、荒川弘は、奴隷制度というテーマを、エラムとエステルをも巻き込んで、描くつもりだ!
だからエステルを強くしたんだ。
荒川弘がキャラを強く成長させるのは、その先の障害を越えさせるため。
エドに起きるイベントは、彼がその先のもっと大きな壁を越えるために。
駒場が強い少年だったのは、彼の行く手に深い谷があったから。
ならば、原作では初めての従軍だった女の子を、荒川版では11歳から従軍させエラムと互角の、アルスラーンより今はたぶん上の強さを持たせたのは、彼女に、原作よりもっと大きな壁を越えさせるためではないか?
痛ましく無いように、彼女なら大丈夫と思えるように。
エステルはもう物語に登場しているので、異教徒との約束など守る必要無しとして奴隷たちが再び奴隷小屋に押し込められるところを、その目で見なければならない。
きっと、そういうことなんだ。
荒川弘は、キャラデザを決めるとき、幼児から壮年までずらーっと描いて、どのように成長していくか把握するそうです。
アル戦でも、結末のアルスラーンを決めて、それを幼くしていって今のアルスラーンがある。
田中芳樹においてはたぶん、天才は最初から天才で、人は大きな歴史の河に浮かぶ木の葉なんだけど、荒川弘は人は根っこと幹と葉を持つ一本の木で、天才は才能の上に努力が無いといけない。理由もなしにただ強い、という存在を荒川弘は描かない。
エラムは解放奴隷の子で、13歳。
5年前、ナルサスが領地の奴隷を解放したときは、8歳だった。
そして、渡された金を瞬く間に浪費し、前のご主人様は私たちを追い出したりしなかったのに、と文句を言いながら領地に戻ってきた奴隷を見ている。
そのエラムが、ホディールの城で、奴隷を解放するアルスラーンを見るのです。お前たちは自由だ、と告げるアルスラーンを、ご主人さまを殺したのか!と襲われる様を、大人に庇われ逃げるしかない姿を。
原作ではナルサスの言葉で語られる過去、正義とは太陽ではなく星のようなものという名台詞。
荒川弘は、コマの後ろにずっとエラムを描くでしょう。敬愛する主人に向ける気遣わしげな視線とともに、アルスラーンという人間の本質を測ろうとする深い視線を。
ペシャワールへ向かう道程で、エラムとアルスラーンが仲良くなるシーンは、アルスラーンが話しかけるからエラムが徐々に心を許した、という原作に沿いながら、エラムがアルスラーンを「認めた」という側面を、たぶん、荒川弘は描くのではないでしょうか。
漫画は、台詞や物語の進行と平行して、物語を担っていない背景のキャラの心情を、絵だけで表現することができる。その利点を最大限に生かして。
ペシャワールに着いたとき、アルスラーンの心はもう「奴隷解放」で決まっている。
その段階で初めて、己は王家の血を引いていない、という事実を突きつける。
荒川版では敢えてアルスラーンが奴隷制を当然とするところから初めているので、物語の構図が際立つ。
そして直後、シンドゥラが攻めてきたとき、アルスラーンは個人の問題は傍に置き、王太子として城壁へ駆け上がります。
ここですでにアルスラーンは選択しているのです。王として生きることを。
解放王アルスラーンは、王として自国の奴隷を解放すると同時に、人として己自身を解放する。
そして友としてエステルをも開放するのでしょう。
物語のテーマを「開放」に置き、それをどのように描いていくのか。
これからもずっと楽しみにしています!