モブとキャラ
アルスラーン戦記では、意識的にモブをかっちり描いていると思う。
読者が、キャラとモブの区別がつかなくなるギリギリまで。つまり、主人公周辺は確かに「キャラ」なのだけれど、三番手キャラくらいになると最初の登場ではモブだかキャラだか分からない。
例えば城守の万騎長サームや、敵軍ルシタニアの将軍モンフェラート。
すると、物語が進むうちにモブだと思っていた人物がキャラとして浮かび上がってくる。モブの代表としてキャラが立つ。するとメインキャラもまたモブとか世界観とかと地続きになる。
特別だけれど、背景と地続き。
これはとても面白い手法だと思う。
鋼は最初からキャラを立てて、少年漫画の基本に則り描いていた。金髪みつあみ、義手、赤コート。あるいは青い軍服に白手袋。
でも荒川先生はキャラ単体の人気というものを不思議に感じていた。何で人気になったんでしょうね、としきりに言っていたし、物語と遊離してキャラ単体が象徴となることに戸惑いがあったんだと思う。
ブリッグズ要塞以降は兵士キャラに名前が与えられず、しかし兵士Aではキャスト固定ができないので、アニメシナリオで名付けされた(髭がカールした通信兵だからカール)
これは荒川先生がモブとキャラの境界線を消しはじめた表れだと思う。
そして、銀匙ではキャラをモブ化した。
普通の、どこにでもいる、埋もれてしまうキャラデザを主人公とし、辛うじて眼鏡やパーカーで「印」をつける。
キャラの書き分けが苦手な絵描きさんの手法。
これは、キャラ単体の魅力が薄くても読者を引っ張って行けるか?の、挑戦だったと思う。
もちろんそれは成功した。生徒はみな制服あるいは作業着で特徴的なコスチュームはなく、しかしそれぞれに個性がある。
また、キャラ立てした登場人物がいるほうが物語が軽やかに回ること(例えば大川先輩)を実感されていたように思う。
アルスラーン戦記は、カタカナばかりでキャラの名前が覚えられないと嘆かれるけれど、銀匙の「名前は知らないけど誰か分かる」手法を、試したように感じる。
そして銀匙と同じように、連載1年目を過ぎたあたり(3巻あたり)で荒川先生のリズムで話が回り始めると、「誰か分からないけどどういう人物かは分かる」が実現してきたように思う。
この手法は別の方面でも生きていて、例えばヒルメスの副官だ。
ギスカールに呼びつけられて辺境からエクバターナに戻るときに付いてきた髭の濃いパルス兵で、ヒルメスがスルーシを殺す場面のちょっと手前でも会話している。彼は原作に不在の名無しのモブであるが、荒川弘版では確かに存在しているキャラである。
ヒルメスのような高貴な人物に副官が居ないはずがなく、またそれは自軍を率いて参戦したザンデとは別の存在でなければいけない。
ザンデにも副官的な兵士がついている。カーラーンの部下でナルサスの屋敷で落とし穴に落とされた男のひとり、白坊主のキャラデザだ。
彼もまた、モブとキャラの間に居る名無しの存在だ。
しかし、ヒルメスの仮の屋敷で家老をしている猫背で髭の男は原作に存在するキャラだ。アンドラゴラス王の宰相フスラブを、荒川版で「使い回して」いる。
原作にあるとおり、彼にはこの後、ささやかだが出番がある。
しかしその存在は、ヒルメスの名無しの副官と変わらない。原作キャラと漫画キャラの境界線は無く
モブとキャラの間の、名無しの、あるいは名前を覚えられることは無くとも、役割のある者たち。
彼らによって、アルスラーン戦記の持つ、群像劇が、歴史絵巻の厚みが、描かれていると思う。