寝言は寝てから

荒川弘ファンのてきとうなおしゃべり。

キャラクター

ラノベと小説の違いについて、ある編集さんが
「小説は作家にファンがつくけれど、
ラノベはキャラにファンがつく」
と言ってて、なーるほど!って思った。

だからラノベは漫画と近い、って結論になってたけど、漫画もまた作家買いってある。
つまり、小説的漫画と、ラノベ的漫画があるということ。

登場人物(キャラクター)は、物語と離れて存在しうるとき、「キャラ」として別個の存在になる。
それは元ネタを知るからこそ面白いパロディから、元ネタを知らなくても面白いパスティーシュになる変遷と重なっている、とゆー伊藤サンの説を下敷きにするなら、小説は漫画から20年遅れてキャラ化まで来た、とゆーことなのかな。

背景や序列やそういったものと切り離されて、ただそれだけがある、というのは、時代の流れなんだよね。
ムラ社会がなくなりイエとか跡継ぎとかがファンタジーになり、私はワタシでも生きていける。
歌手を知らなくても曲を聞き、カヴァー曲も新曲も差異無く同じアイコンで表示される。
かつては不可分なものと思い込んでいたのが、そうではなくなる。


私はあと、キャラ化は連載という発表方法も関係してる感じがする。
いつも続き、で終わるから、続きをいろいろ想像してしまう。
続きがある、という免罪符のもとに中途半端でも許される。←素人の夢想の余地
そして続きがテンポよく出るから夢想が冷めない。

小説家の条件は良い話が書けること、ラノベ作家の条件は大量に書けること、なんだそうだ。

シリーズもの、は、物語のためでなくキャラのためにある。
物語のために出てくる登場人物ではなく、キャラが活躍する舞台としての物語。
何でもシリーズものだ、一回当たるとそればっか頼って、みたく言う人もいるけど、シリーズものは、登場人物のキャラ化、作家ファンではなくキャラファン、という流れの、当然の行き先でもあるんじゃないかなー。

で、アニメで作家買いは、ジブリ。あれはだから、ラノベじゃなくて小説だ。
キャラ化の黎明期という時代だったからこそ、ナウシカのファンじゃなく宮崎サンのファンが育った。

その、ジブリ出身の監督は、鋼をラノベにしなかった。人気キャラの活躍より映像としての完成度を優先したとことか。
それは良い。鋼はクオリティの高さもまた作品の魅力。
けれど、もし鋼を長くコンテンツとして生かしたいと思ってくれてるなら、ラノベ的アプローチもいいのになあ。
シリーズものに、なんないかなあ〜。


ご大層なこと言ってて結論は、また新しい鋼作ってくんないかなー、なのでした。