それは「私のもの」だから
すっごい人気作には、熱いファンとともに酷いアンチも生まれる。
去年のワンピがそうだった。
そして、ほどほどの作品には、温かな声援が多いの。
アンチはいなくて、嫌いな人はぬるく笑うかスルーで終わり。
なんで、すっごい人気作にだけ、信者とアンチが生まれるんだろう?
持ち上げられるとやっかみが生まれるのは世の常。
あと、共通言語として通じるだけのメジャー性がないと、対立も生まれない。
でも、それだけじゃないよなあ?と思ってたんだけどね。
去年、ちょっと好きな作品ができて、そして分かったの。
信者もアンチも、その作品が「自分のもの」だから、強烈に反応しちゃうんだ、って。
去年「軍靴のバルツァー」って漫画に2ヶ月だけハマってて、今ももちろん好きなんだけど普通に単行本派です。次の発売日をちゃんとは知らない、でも出たら買うよ、の普通の単行本派。
そんでね。マイナーなもんだから一生懸命感想サイトとか探して、褒められてると嬉しくて、そして貶されていると、…悔しくなかった。
悔しくなかったんですねー。
私はかつて、鋼の錬金術師の感想ブログをやっていて、私ほど鋼を知ってる人はそうはいないぜ!と自信満々でした。
そして、貶されてるとすっげ悔しかった。
悔しいから言い返して、論陣張って、勝ったときは勝った!って思って、負けた時も論点すり替えてぜったい負けを認めなかった。
あれ?私あんなに激しいファン心理を持ってたのに、今回どーして悔しくないのかしら?
私そんなに穏やかになった?
ううん、ちがう。人の本質って変わらない。
じゃあ、鋼とバルツァーと、何が違うんだろう?
なんでバルツァーだと悔しくないの?
作品の面白さの差。メジャーとマイナーの差。
いや。そういう違いじゃない。
その作品が、私のもの、かどうか。
そこの差だ。
鋼は私のものだった。だから貶されると私自身を責められたかのように悔しかった。私が守らないと誰が守るんだ、と、そういう切迫感があった。我慢しても2回が限度、3度目は反論せずにはおれなかった。
でも、バルツァーは、まだ私のものになっていなかった。
貶されても私はどこも傷つかなかった。辛くなかった。だから私が守らなくても大丈夫だった。
鋼は、私という容器の内側にあった。
でもバルツァーは私の内側にまでは、まだ浸透していなかった。
私は、私の中に物語がある充実感と焦燥感とを思い出して、バルツァーにハマるのを止めた。
もう一度、作品に恋をするときは来ると思う。でも今はまだ、やめとくね。
すごい人気作品には、信者とアンチがいる。
信者も、そしてアンチも、その物語が「私のもの」だから、それを否定されると、ものすごく悔しい。
ちょっといいじゃん、って思ってた今日の服装を笑われるように。
ただの服なのに、私自身を笑われたかのように、傷つく。
ただ、分かりにくいのは、それがただの本屋に売られている漫画だということだ。(あるいはテレビに写っているアイドル、グッズ屋で売ってるフィギュア)
それが、私自身の一部になっている、ということに、本人も気づいていない。
「たかが漫画だし」と自分自身もごまかしている。
そして貶す側も、それが相手の一部だということに気づかない。別に生身のあなたを責めてるわけじゃないわ、その話が“客観的に”駄目だと言ってるだけなのよ。(そして「客観的に」は、責める側が絶対に必要とする盾だ)
対立は、発言から起こる。
発言は、気持ちの動きから起こる。
その気持ちとは、自分が傷つくかどうか、だ。作品の良し悪しではない。
そして自分が傷つくかどうか、は、その作品が自分の内側にあるかどうか、による。
すっごい人気作は、熱狂的な信者を生み、そして強烈なアンチを生む。
それは、面白さとか巧みさとかそういうんじゃなくて。
これは私のもの。
と思わせる力が、一定以上に強いこと。
それが、ほどほどの人気、と、すっごい人気、の差を生んでるんだと思いました。おわり。