寝言は寝てから

荒川弘ファンのてきとうなおしゃべり。

勝利というアイテムを使わない成長物語

少年漫画は、てっぺんを目指す。頂点を、世界の果てを目指していく。

そして少女漫画は半径10メートルに幸せを見つける。

銀の匙は少年漫画なのに、そのてっぺんを目指すのに必須な、「勝って強くなる」という要素が無い。

まず、競争が嫌で逃げてきたというスタート。

競争が苦手だ、競争することそのものが怖い、そういう子は確かにいる。

そういう優しい子には別に得意なものを作ってあげて、それで勝たせてあげたい。学校の先生的な発想だと、そうなる。

でも、銀の匙は別のアプローチをした。

競争が怖い子が、それでも少年漫画として「果て」を目指すなら、その間をどう埋めていけばいいだろう?

農学校の学友は良い奴ばかりなんだ、という主人公に、それは成績で抜かれる心配が無いだけではないか、と父親に喝破させたのは良かった。

少し意地悪な読者の考えを、作中のキャラに言わせることで、物語のその先を示す。

八軒は父の言葉に迷い、けれど、そうじゃない、うまく言えないけどそうじゃないんだ、という結論に達する。

彼はこのときすでに、父の権威から半歩抜け出している。

サラリーマンの父は、競争社会の信奉者だ。だけど八軒はもう、別の道を歩みだしている。

ブコメやギャグには勝利は無用だ。成長しない物語だから。

でも、成長を描く、というテーマを決めて、そこに勝利を使わない、というのは、とても難しいことだと思う。

もちろん、バトルだってスポーツだって、勝利する漫画はちゃんと、勝ったから成長したのではなく、それまでの過程で少年が成長したからその成果として勝利を得るのだ、という描き方をしているけれど。

銀の匙は、勝利というアイテムを使わない少年漫画だ。

勝つ側ではなく、その他大勢の負ける側に、負けた子たちに寄り添う漫画だ。

競争が無い。勝利が無い。だから負けさせるための敵キャラもいない。

敵がいない。全員が良い人で、良い大人。

悪人がおらず、悪感情も描かれない。

主人公の最大の壁である父親とて、厳格さは父性愛の発露だ。それは読者には明確に、そして八軒自身も否応無く気づいている。

銀の匙は、厳しい社会と優しい人間の物語だ。

なのに少年漫画だ。

御影家を継ぐんじゃないか?

エゾノーの先生になるんじゃないか?

そういう読者の予想も順に否定する。

そう。半径10メートルの幸せに落ち着くのは、少年漫画として弱いから。

少年よ。大志を抱け。

「夢が無い」というテーマを入学からずーっと引っ張ってきて、そして早春、八軒が目指す「果て」が示される。

まさかの「起業」

インテリな、意識高い系な響き。今までの少年漫画なら慶応大のセンパイが、みたいな枕詞がつく単語。

けれど、ここまでの積み重ねを共に歩んできた読者は、ああ!と深く納得する。アキの温かな視線とともに。

競争が怖くて逃げたって、大丈夫なんだよ。

勝つ側ではなく、その他大勢の負ける側の子たちへ、ひとつの答えを。

八軒の成長物語は11巻で一応の決着がつく。

まだるっこしい八軒は起業もまたまだるっこしく、相変わらずあれやこれやと迷い、失敗している。

けれど、彼はもう大丈夫だ。

大人になるということは、私はもう大丈夫だ、と思うことではなく、あいつはもう大丈夫だ、と周りに思われることだ。

相川や多摩子は最初から大人で、常盤はまだちょっと子ども。吉野は留学を経た後は大人の中島先生と対等に張り合っているし、アキの合格も確実だろう。

あいつは大丈夫だろうか、と気がかりが残る最後の1年D組メンバーは、駒場

ドロップアウトという「負け」を、物語の最中に経ねばならなかったキャラクター。

彼の成長がきっと、物語の着地点となるんだろう。

主人公の成長を、誰かの負けによって成り立つ勝利、というアイテムを使うことなく、少年漫画らしい明快さでもって、読者に伝える。

銀の匙は、素晴らしい漫画だと思う。